想い「真希子さん、ありがとう !」

鳴海さんとの初めての出会いは芸大の若い卒業生や大学院生を集めて混声合唱団を編成し、関東各地や果ては山形の小中学校にまで足を延ばし、スクールコンサートの旅回りをしていた時でした。その頃彼女は学部生か大学院生?だったと思う。吉田秀文君に人集めを頼んだつもりが後で聴くと、実際は鳴海さんがあちこち声を掛けて集めたという。えら い元気の良い人だなと思った記憶がある。合唱団がバッハを取り上げる時は、ソリストでも合唱の応援者でもみんな芸大カンタータクラブのOBか現役の学生にお願いすることに 前からなっていた。古いプログラムを調べると1991年6月29日千葉県習志野市のホールで行われた京葉混声合唱団の22回定期に於ける、ミサ曲ロ短調の時、合唱のエキストラとし て名前を見つける事が出来る。この時のソリストに、その前年に引続いて佐々木正利、佐々木まり子両先生をお願いして歌って頂いた。つまり1990年6月30日の同合唱団、同ホール で公演されたヨハネ受難曲の出演者名簿に小原浄二君(合唱のエキストラ)の名はあるが鳴海さんの名はない。1995年同合唱団によるマタイ受難曲の時のプログラムを見るとアル トのソリストとして初めて登場しているし、プロフィールの欄を見ると当団のヴォイストレーナーとある。以降、渡米するまで同合唱団のソリストを務めた。


 

■東京J.S.バッハ合唱団
第9回 定期演奏会「マタイ受難曲」

さて東京J.S.バッハ合唱団との関わりを調べると、1992年4月同合唱団10周年記念、目白の東京カテドラル聖マリア大聖堂でのヨハネ受難曲の合唱のエキストラとして名を連ねているのが初。以後、1993年1月新宿文化センターでのマニフィカートでも合唱のエキストラとして、1993年10月石橋メモリアルホールでのカンタータ68,92からは全てソリストと して出演、つまり1995年4月東京芸術劇場のマタイ受難曲、1996年4月中野ZEROホールでのロ短調ミサ、1997年3月東京文化会館でのマタイ受難曲、1998年東京芸術劇場での聖トマスカントールのビラー氏の客演指揮によるヨハネ受難曲、1999年3月はジュリアードの本番とぶつかって駄目、2000年4月は東京文化会館でのマタイ受難曲でこれが最後となる。1995年9月と1997年2月にも京葉混声合唱団のマタイ受難曲で歌っているので、僕は 彼女の"Erbarme dich"を4回もそばで聴いたことになる。

ビラー氏指揮のヨハネ受難曲をうたった頃の鳴海さんは最高に輝いていたと思う。その時のプロフィールを見ると「昨年12月ニューヨーク・カーネギーホールでべ一トーヴェンの第九の独唱を務めた」とあり、更に「生まれて初めて歌った合唱曲はバッハのロ短調ミサでした。それ以来バッハの音楽と声の芸術に魅了され学び歩んで参りました。今宵ビラー 先生の指揮のもと演奏できますことを心より感謝しております。心を込めて歌いたいと思います。」とある。リハーサルの時も英語とドイツ語のチャンポンでビラー氏と目を輝かして会話をしているのを思い出す。

人は必要性を感じた時にそのための行動を起こすわけで、不必要な事に対しては指一本動かさない。歌いたい人が歌い続けるために何でもする。そのうち声が掛からなくなったらその時は歌うことをやめても良い、という人はその程度の努力で終わる。生まれつき素晴らしい声を持っている人でさっさと歌わなくなった人をたくさん知っている。医大教授の奥さんになったり、ソニーの会長になったりして歌をやめてしまう。彼女の魅力は、納得するまで歌うことに関するあらゆることについて自分に妥協しないこと。絶えず厳しさをもって目指す声や表現の為に満足ゆくまで努力した。彼女はどうしても歌い続けたかったのである。彼女は多分小林道夫先生にバッハを教わり、佐々木、伊原先生、その他の先生に声楽を教わったでしょうけれど、他と違って吸収する力が人一倍だった。それに比べて僕は吸収力は彼女ほど無いけれど、自分のやりたい事の為に鳴海さんのように自分に厳しく努力しようと思う。

精神も体の鍛練も鈍っている昨今、その意味で完壁だった彼女を見習ってやり遂げなければならないと思う。言い訳が先に立って、前進する事に弱気になった時、彼女の努力と無念を思い起こし、力強く再び歩き始めることとしよう。

来る2003年3月22日、東京J.S.バッハ合唱団第12回定期演奏会はロ短調ミサ。鳴海さんの「努力を尽くし立派な結果を出した」その功績を称えて演奏しようと思う。  志をもつ者に希望を与えてくれた真希ちゃん ! ほんとうにありがとう。

 

東京J.S.バッハ合唱団・常任指揮者 高橋 誠也

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